昭和56年10月23日 月次祭  入力者松本正宏


 ご本部で御用を頂いております、渕上先生のところで、男の子が出産頂きました。次々とここの修行生の先生方のまあ御父さんになっていくわけです。ちょうど、五人目に、最近先生方の子供皆息子ばっかり、でその、5番目ですから、私が、名前を五徳と銘々しております。御父さんがお願いして、恐らくご本部におるから、金光様から頂くじゃろうと思いますけれども、私はあの、五徳と、五つの徳と書いてある。そして五徳。五徳というのは皆さん若い方は知らない方も有るかもしれませんけれども、火鉢の中にこうやって、ね、(?)五徳を置いて、そして上にお茶(?)なんかをかけるわけです。それを五徳というわけです。ですから熱いところにさし込まれてもね、ジッと我慢の出来るようなおかげ、いわゆる辛抱力がなからなければこの五徳は頂けない。五徳といえば、神徳人徳金の徳、物の徳、健康の徳と人間はこの五つの徳を受けないと本当の幸せはないといわれておるわけ。どの徳がかけても、もう金だけは物だけにはという健康だけには恵まれておるというて、もう神徳人徳が頂かれなかったら人間の幸せは絶対約束されません。人間の真の幸せ。しかもこれは、あの世この世を通しての幸せです。ね。いわゆる幸せの御霊安心喜びの御霊としても、私共はこの世におる家にこの五つの徳を受けるくらいな信心をさせてもらう、そこに信心辛抱の徳を受けて、ね、辛抱力を作ってそれが徳ともなるような一つ、おかげを頂きたい。その五つの徳の中でも、合楽の頂いておるお徳というのは金の徳だと思うですね。お金の徳です。これはやはり私が一番、修行を致しましたからね、難儀を致しましたから、もう根限りの修行をさせて頂きましたから、やっぱ修行させて頂いたものがやっぱ今日おかげを頂いておる。
 ね。私と、家内は神様に「布一寸買いません」とう修行を致しました。今日まで続いております。「下駄一足買いません」という修行をさせて頂いて三十年間続いております。ね。まあ、その自分にどうしてこういう無茶な修行を神様にお誓いもうしたのか自分でも分からないのですけれども、しかし、それをやりぬかせて頂いただけではなくて、しん、その、まあ例えば布一寸というても、布なら布でももう本当に、私と家内が今身に付けさせて頂くものて、いうならば勿体無いような身にあまるようなものを身につけさせて頂いておる。ね。もう、勿論下駄の一足も買うわけではありません。勿体無いおかげを頂いておる。ね。ように、辛抱力を作ると言う今考えてみるとまあ、無茶な修行のようにありましたけれども、一心発起してやっぱ神様にお誓い申してそういう修行をやりぬかせて頂いて、それも楽しゅう有り難う、しかも有り難う、それこそ限りなく頂けれるのですからこんなに有りがたい事はないのです。
 恐らく一生、買わんでやはり神様とのお約束を守って行けると思います。皆さんが一番求められておるものは何でしょうか。昨日、一昨日朝の、昨日一昨日の朝の朝のご祈念お時に大黒様がこう(?)かえてすわっとる、前に丁度千両箱倍くらいだからこの位でしょうね。の箱のふたを少しばかりこう開けかけておるところを頂いた。中には大判小判がいっぱい入っておるというお知らせでした。私は今日皆さんに、合楽で一番ならこれは絶対おかげの受けられるのは合楽にご縁を頂いて合楽流儀というか合楽理念の実験実証させて頂いて一番に頂くのは私は金の徳だと思うですね。無いものは渡されん。有るから渡せるのです。というて、さああんたにもやろうあんたにもやろうというわけにはいかん。結局、受ける人が受け物を作らなければならないという事です。今朝から私はお夢を頂いた。それは、久富繁雄さんのおとうさん、久富国蔵というお方でしたが、まあ、これは合楽にお供えせんならんというて、これはとてつもない草鞋を作っておられるところでした。畳を何枚かするような大きな草鞋だった。草鞋と言えば、御理解に和楽の路とかいてある。和楽の路。だから、和の路楽になる路をいよいよ体得させてもらう。勉強させてもらう。和楽路は、道路の路です。もう本当に和楽の路と、私共が和楽であるというほど幸せの中、どんな場合の中にあっても和楽である。先日から北野の秋山さんがお届けされますのに、昨日ある事で、まあ、これが普通で言うなら、言うならばひょっとすると悲しかったり、残念だったと思うような事柄があったのですけれども、その事をちょっと思わせて頂いたら、それからありがとうなってありがとうなってというお届けがありました。これはいかに秋山さんが和の路を日々稽古しておるかと言うことが分かるです。先ほど西原さんがお届けされます。もう、私は、ね、これは、ご夫婦の方ですけれども普通で言うなら夫婦喧嘩でも起こりかねるような時ですね、もう気が付かせて頂いたら自分がそれがどうも無いでありがたい、自分がこがしこ豊かになったこがしこ大きくなったというのが有りがたかったというお届けがありました。信心と言うのはね稽古しよると何時の間にか、稽古しなかったらだめです、いつまでたってもダメです。最近ここで、乾物とか野菜果物が大変段々垢抜けしてきたでしょう。私は最近この頃は、月次祭たんびに入っていって、(?)だから工夫するんです。ね。だから何ばいいよるかちその心の中にその思うてその、受け付けなかったら何時までたっても上達しません。(?)やっぱりやりなおし、またやりなおし、してしておりますから段々垢抜けしてくるのです。ね。稽古しなかったらその和楽の路。だから結局草鞋履きと言う事は一生懸命だということです。草鞋履きというのですから一生懸命。和の路楽の路を頂く事の為に、一生懸命にならなければならない。ね。今日はあの、九州、北九州教区だよりというのが、新聞が毎月ですかね、皆さんも大分とっておられる方もありましょうが、今日来ておりましたのを読んでもらいまして、福岡の西教会というところの先生が書いておられる。それを読んでもらったのですけれども、金の杖を突けば曲る。木や竹は折れる。神を杖につけば楽じゃという、見出しであの書いておられる。あちらのご信者の中に、あるまあ、試験に臨まれるというのです。大変難しい試験ですから、何々さんがこう、頼まにゃいかん。ね。頼んで入れてもらう。運動するわけ、と言われるから、そういう事よりもね、神様に一心にお縋がりさせて頂けばよいですよと、御届けをさせて頂いた。ところが、渡りに船というか、こちらが頼みもしないのに、ある方が自分方の子供にはあの方に頼ませてもろうたから、あんたんところも頼んであげましょうかと言われるというのである。ね。そこで、また、お取次を頂いた。こちらからじゃなくて、向こうから言うて頂くのですから、どうさせて頂こうかと、時に先生がそれはあなたがお試しを受けとんなさるとですよと言われた。
 それで、まあ、どこにも頼みもせずに、おかげを頂いたのですけれども、その、頼んだという人が、もうその、何か病気か何かで、あっと言う間になくなられてしまわれた。結局、そして、結局その方は落ちられた。家の子供は助かったというお話である。また、次にはこれは教会長の先生のことでしたけれども、娘さんが学校に行っている。丁度記念祭でその、舞いの稽古を娘さんがなさった。ね。吉備舞いをところが丁度御大祭の日に修学旅行が日程がこう決まったとこういう。ね。それで、先生としては、まあどうとも言わなかったけれども、娘、娘なりで神様の御用だからというので、旅行の方を断って大祭のおかげを頂く事に腹を決めたという御届けがあった。ね。ところがおかげを頂いて、その、どういう事か、その、旅行が一日延びるという事になった。旅行のおかげも頂けれるようになった、大祭の御用も出来たという二つのお話が出ておりますから、皆さん、とっとる方は読んで見て下さい。これはまあ、一つのまあ定石とでも申しましょうかね、まあこういう御教えじゃないその、おかげならばどこの教会でも皆頂いていますね。だから信心というのはね、そういう受け方、頂き方がいよいよこれを育てていくという事なんです。ね。金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる、神を杖につけば楽じゃというこの、楽じゃというところまで信心を進めていかなければいけんのです。楽じゃという事は信じるという心がいよいよ豊かに大きく育っていくという事なんです。試験くらいな事だからいうなら任せた。ね。まあ、修学旅行に行くか行かんかくらいな事じゃから神様の方をとった。けれどもこれがです、例えば命に関わるような事であるかも分からない。(?)を右左するような大きな事柄かも分からない。どういうような場合であっても、神を杖につけば楽じゃという確信を作っていくという事なんです。ね。今の二つのお話、皆、合楽じゃ誰、そげなおかげを頂いておると。まあそげな事くらいしっとるという事になりますじゃろうと思いますけれども、けれども、それを育てていく、それがもう少し難しい事になってくると、いうなら合楽理念の実験実証が、いよいよ出来るそして力を受けるという時にです、これを右左にしていったら、いつまでたっても和楽の路は開けないです。ね。神様を信じて疑わない。その信じる力をいよいよ大きくしていくという事なんです。ね。だから大きくしていく事の為の手立てというか、ね、それを最近では言われます、一回り大きくなろう、その為のいうなら修行をさせてもらう。信心を育てるという事は、もう、最近言い出された事の中に御用という事がある。それも、責任においての御用である。総代なら総代としての責任においての御用。一人一人の信者さんが、合楽に御神縁を頂いて、合楽の信者でありますというその、合楽の一信者としての、責任においての御用。どうでしょうか。皆さん出来ておるでしょうか。責任においての御用。自分がおかげを頂かなんから、一生懸命参りよったというのではなくてね、責任においての御用。これをなら、合楽にご縁を頂いておる者としての責任をそこに感じれれるような信心。ね。その信心が自分でも不思議なくらいにたまがるくらいに、信心を育ててくれます。ね。
 今朝から皆さんに聞いて頂いた話ですけれども、ご理解第百節でしたかね、「目出度目出度の若松様よ、枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神の家繁盛、子孫繁盛の道を教えるのじゃ」と仰せられるのです。目出度目出度の若松様よと聞いて頂いて、喜びたい感じがしますけれどもね、そういうおかげを私一代ではなくて、子に孫にもいよいよ子孫繁盛になっていく、おかげの頂けれる道を教祖金光大神は教えられる。だからその道を私共が行じなければならない。私、今日、昨日聞いて頂いた話を引用して今朝から聞いて頂いた事でしたけれども、昨日のお話の中に今言う、大黒様の私は昨日の朝のご理解にね、合楽教会も、これは本当に、不思議、あの、何というですかね、お金が必要なら必要なだけは集まってくる。ね。もう必要なだけはこれはどこに借りに走らんでもよかごとおかげを下さる。ならそんな合楽は沢山銀行から金借りておるじゃないかと。まだ、借りとっとじゃるとばってんか、別に貸してくださいというて借りておるとじゃないです。これは、銀行にある金もやっぱ神様の金と思うておりますから、まあ平気で使わせて頂いておるわけですけれども、丁度ここの信徒会館か六億かかりました。その時に何億か借りたわけでしょうけれども、おかげで一億五千万あまりになっております。先日から若先生が幹部の方達が集まって、今度の記念祭が来年十五年の記念祭に当たります。何か事業を思いたつですけれども、事業を色々、どういう事を芯にしておかげを頂いたらよかろう。合楽信徒会館建設のいうならば完了という事であろうなあと私は思う。ね。丁度十年祭と十五年祭の相中に始まった。本当いうなら記念祭のとこに始まらなんと思うのだけれども、合楽がそれが違う。だからもういうならば記念祭の事業が去年ならおとどしですかね、から始まってこれが出来た。そしておかげで、いうなら、六億のがあと一億五千万という事。これは、次々おかげを頂いておるで、まあ、どうやらおかげを頂くと思うのですけれども、けれども最近私が感じるのがね、合楽の一人一人がその責任においてのまあ自分が割り当てたらいくらなら、借金をおうておるという責任においての御用が出来よらんという事。
 もう出来上がったからしまえたかのように思うておる人もあるかも知れん。その責任、一人一人の責任においての御用が出来る。その御用が受けものを作らせる信心を育てる大きくしていく。これはまあ不思議です。これは私は最近段々感じるようになりましたから、この頃口を開くとお互い一人一人がその責任においての御用。今まで合楽では三十年間御用という事を申してきませんでした。御用というものは皆がおかげを頂いてあり難い勿体無いでそうさせておらなければおれんというので、お供えをしたり御用をしたりしておるのが合楽の現状であった。それがここ最近は、あの津田先生が亡くなられて、信心は御用なり、信は力なりといったようなことを言っておられた先生のそういう生き方にある意味抵抗を感じておりましたけれども、最近いよいよ分からせて頂く事は、なるほど、合楽の本心の玉を磨く事であり、日々の改まりが第一でしたけれども、それをいよいよその、本当なものにしていくという事の為の御用。これは丁度お互いの信心が緩んでおる。緩みかかっておる時にスパナを持ってその、ねじを締め上げていくような役をするのが御用だという事を頂きますね。二三回前のお説教の時に頂きましたよね。秋永先生達姉妹のことを話した。もし先生達が三十年間、もしあのお祭りをつかえるあの祭員としての御用を止めておったら、今ごろ秋永家の信心はどげんなっておったか、ひょっとすると分からん。けれども、これがあるばかりに、それこそ、一分間だって、遅く(?)にはいかんので、その、お月並祭たんびにねじが締められてきて、今日までの信心が続いてきたというても過言じゃないと思う。
 そういうお知らせを頂いたのです。御用というのはそういう意味合いで非常に大切である事が分かりました。ね。そして、いうならば和の路を楽の路をという事はやはり一生懸命という事。ね。そしてお互いが一番願っておることは合楽にご縁を頂いたら、金やら心配しよんなさると聞いたら可笑しいくらい。皆が億万長者になれれるという事なんです。合楽には。この箱の蓋をあけて、いうなら打ちで小槌です。必要なら何ぼでもね、いうならば、振り出させて頂けれるいうなら力とか働きとか一杯あっておる。だからそれを受け止める力というか受けものというか、ね。
 これは、今朝からも皆さんに聞いて頂いたのですけれども合楽の場合は私の話とは思われない。あれが天地の親神様のお心だなあとあれが金光大神が教えられる本当の教えだなあと思われずにはおれないほどしの教えを日々頂いておるというのである。だからねだからそれを行じなかったらそれを、稽古しなかったら、それを一生懸命にならなかったら、金光大神、いわゆる子孫繁盛家繁盛の道を教えるといわれるその道を体得する事は出来ないという事である。なら私が絶対、天地の天地の親神様のお心であるな、金光大神のあれが本当の教えであるなと思わずにはおれない信じずにはおれないという働きが合楽教会には一杯あっておるという事。何時の場合であっても。ね。神様から私がお知らせを頂いたことだから間違いがないというだけではなくて例えば昨日なら、その大黒様のね、そのお知らせを頂いた、お話をさせて頂いたらご理解が済んでから、あの、総代の正樹先生が、今朝の御祈念の御祈念中に、久富繁雄さんのいわゆるお父さんとお母さんです。いわゆる久富家の本家なんですよ。ね。その、本家の久富さんのお父さんに当たられる方。夫婦。大黒様の格好をして座っておられるところを頂いた。そして親先生が大黒様と言われるからビクッとするくらいに、間違いないなと感じたというのです。これも昨日の朝でした。安藤さんです。小竹の。これは昨日、前の晩御祈念をさせて頂く時に、あちら田んぼが沢山あるけれども百姓なさらんからそれを売ろうとしておられる。ちょっとそこに問題がある田んぼですからその事を御願いしておられます。田んぼを売ってこれをそのまま御造営費におかげ、御用させて頂きたいという願いがしてある。その事を御願いしておりましたらこの位ばっかりの純金の金の大黒様を御神願に頂いたちいう。そしたら今朝参ったら大黒様の話をされるからびっくりしましたと言う、お届けが昨日の朝やっぱりありました。
 そういうふうにして皆さん聞いてみたり自分が頂いてみたりするとです、親先生の話というのは、ただ、ね、その私の頭から話とか自分が封印してから、何か読んで皆さんに話しておるとじゃない。あれが神様のお心であり金光大神の教えであるという事をね、信じずにはおれない働きが一杯あるのですから、皆さんがそれを信じてそれを行じる事なんだ。それによって稽古をしていく事なんだ。ね。稽古していかなければそれにはねやはり一生懸命。昨日、大きな草鞋のお知らせをこれもやっぱり久富さんところのお父さんが私が御夢を頂いたのもやっぱりそうでしたが。大きな草鞋を作って合楽にお供えをするちいいよなさるから、これは大きなちいう事は合楽全体という事だろうと思う。ね。久富国蔵と仰っておりました。久富という事は久しく富むという事ですから、親の代よりも子の代という久しく富んでいくという事。国の倉と書いてありますから、教会の一つの大きな倉と頂いてもよろしいでしょう。ね、その、倉一杯にお徳を頂きたい。人間の幸せというかその条件というのは五つの徳が神徳人徳という、それに金の徳、物の徳健康の徳が足ろわなければならん。それが足ろうというのが真の信心による他にない。どんなに繁盛しておっても親の代より子の代と繁盛していくいうなら、繁盛でなからなければ本当の繁盛と思われない。それにはね、今日私が九州大学の新聞で聞かせてもらった話のようにね、金の杖をつけば曲がるという事を知らなければならない。ね。竹や木は必ず折れるという事を言っておるわけですね。人やら物やらを頼っては本当のことではない。神を杖についての信心である。神を杖につくほどしの時だからやっぱりそれはきついけれども、杖をついておるからいうならば楽に登っていけれる。
 ね。しかもそれがね神を杖につけばきついけれども、そのきつい事の内容が分かったらこれが神愛、これが神願と分かったら神様にお礼を申し上げる心が生まれてくる。それがきついものでもない苦しいものでもない。ね。神様、神愛としてそれが頂けれるようになる。神を杖につけば楽じゃと仰せられる。それで今日新聞の記事の中にあります先生のお話のような程度のお話の試験の事とかね、いうなら、さっき、そのくらいのことならば、神様のほうばとる。ね。神様を芯にして、神様を御中心に申し上げる生き方が出来る。ここではそれを親先生がああ仰るからと親先生任せになるという事がそうなんだ。ね。けれども此処はという時に任せきらん。ここは神を杖につけねばという時に、金や木をついておるようなことでは何時までたっても楽じゃという心には頂かれない。神を杖につけば楽じゃという信心をいよいよ身に付けて行きたい。ね。これは、だから、信心を分からせてもらうと、おかげを頂いて新たかなおかげが分かったら、次には今お話の中に出てくるように神様中心の生き方というように、段々なってきてそれ、例えば今日それを研修の時に皆に話した事ですけれどもね、もう、例えばなら吉備舞いの話でもそうです。その教会のお嬢さんが修学旅行を捨てて、いうなら教会の御用の方をとられた。そしたらおかげを頂いて旅行が延びた。というわけで、それがそんならばですね、そんなに、定石どおりというわけにはいかん。信心を習っておる合楽理念をマスターしたとしてもその応用問題が大事なのです。その事だけならば、そのまま真似したらよかごたるけれども、そうではない、全然形の変わった事で、いうならそういう働きが起こって来た時にです、ね、私共がそれをいうならば神様本位の生き方が出来るようなおかげを頂かせてもらわなければ出来ない。ね。だからそういう時にですよ、神様の方をとらせて頂いたばってん、修学旅行はとうとういかれんじゃったと。言ったような事になるかも分からんのですよ。今の新聞の話やらもう本当にあの、方どおり、(?)方のね、一つの見本のようなものですから、けれども応用問題になってくるとそれが二辺三編と同じ事がこれほど信心するのにといったようなことになりかねないのですよ。けれども神様を信じて疑わないという生き方で、これはまだ信心が足りんのだと本当のことを求めてより本当の事へ信心を進めていくうちにです、これ絶対のもの間違いのないおかげ働きという事にもなってくる。ね。皆さん、試験の問題だってそうです。もう、人には頼まずに神様一本であったから合格したと答えが出て来たようなものですけれども、そうばっかりにはいかん場合がある。そうであっても出来なかったという場合がある。試験が出来なかった。しかも繰り返し繰り返し、何年も出来なかったという事もあるのである。ね。そういう時に神も仏もあるものかと捨てるのではなくて、そこのところを、神も仏もあるもんじゃない神様が仏様があるから思える信心なんだ。ね。例えば熊谷さんところのご長男が大学受験の時がそうだった。
 もうとにかく、わりと高校ではそれこそ、太鼓判押すほどしに間違いがないという慶応を受けられた。ところが今年も出来なかった、来年の次の次も出来なかったというのですからね。もう本当に子供が大学受験のおかげを頂く事の為に信心を始めたという位に、その、一生懸命思うておられたのです。ところが来る年も来る年もだめだったのですからね。ところがまあそれこそ、二年目三年目なっていくに従って信心が分かってきた。子供のこと。これは深い深い神様のご神意ご神慮がある事に間違いがないという生き方でいよいよ信心に励まれて、何十年な今日までその、ね、(?)続いておられますよね。そしてできられえてから就職されてからそして奥さんをもらわれてから、次々とその、おかげを受けていかれる模様をみると、やっぱ三年やっぱり送れなければ出来なかったというような事柄ばかりであったという事なんです。
 ですからいうなあ定石どおり行くなら二年目には出来にゃんとじゃけれどもそれが出来ない。だからそういうところをね、なら今日新聞に見るようなまあ、ばかりには問屋がそうは下ろさんといったようなところもある。ね。親先生任せになったけれどもなら自分の思い通りにはならなかったという事もある。昨日、その時こそが大事にしなければならないその時こそがいよいよ和の道であり楽の道をいよいよ本当のものにしていく時であり、また、頂いておる信心をいよいよ育てていく時である。ね。これはまあ、お互い金のことだけではありませんけれども、やはり、この頃テレビで言っておる、この世で一番大切なものは何かというたら、もうほとんどの者がお金というですね。確かになら、おかねは私は今までもう必要な時に必要なだけあればよいじゃないかと思いよったけれども、そうじゃない。私昨日一昨日のご理解を頂いてから、一つ神の徳に物を言わせようと思うておるです合楽は。ね。今までは必要な時に必要なだけだったじゃろう。ところがそれがなら、銀行に沢山なお金を預けておる。いきなり、(?)使わん。なら御本部なら御本部に毎月一千万なら、一千万づつお供えが出来るように、これは出来るです。合楽ならできるです。今は沢山の子供があるから子供を養うていくだけで大変。五十名から養うていかなんからね。親も(?)。ね。けれどもこの子供達が巣立ってからですね、子供達がなら、貸せするごとなったら、この金はどこに持っていくですか。ゆうきゅうに使うわけじゃなくて、それこそ御本部になっとんお供えせにゃしゃあないじゃろう。それこそ御本部ほど合楽ほど、評判が悪いところはない、いやとにかく本部に弓を引くとさえ悪口を言われるのが今日の合楽です。ところがどうでしょうか。一千万のづつばっかりのお供えが毎月送ったらですね、もう一遍に合楽の評判が快復するだけではなくて、これは合楽のいいよるのがほんな事になってくるじゃろうと思うです。私は金に物を言わせたいです。これからの合楽は。ね。金の徳に物を言わせたいです。海外にもどんどん布教させてもらわなならん、先立つものは金です。為にはいよいよ合楽では一番おかげの受けられるのは金。それには皆さんが本当に銘々が億万長者になって頂くおかげを頂いてもらわなければならない。皆さんがその気になれば頂けれるのが合楽だと。合楽で一番おかげの頂けれるのはお金だという風にですね、為には一つ草鞋履きの信心を本気でさせてもらってね、和楽の道を本気で極めていこうとする精進がいるのじゃないでしょうか。ただ聞いておるだけじゃない。先ほど、柴田さんがお知らせを頂いておるのにね、お知らせを頂いておるのに、その聞くだけじゃでけん。それを一言でも耳に留めてから行じていかなければというご理解を頂いておりましたが、ね、どれだけ合楽理念が血に肉なっていきよるか。なら最近、私が今日皆さんにもう言うようにです、金光大神が子孫繁盛家繁盛の道を教えると教えられるのですから、その道を教えてもらわなければならない。それもあれは大坪総一郎が教えておるのじゃない、天地金乃神様だ金光大神の教えはこれが本当なものだと言わずには思わずにはおれないような事実を踏まえての合楽の話なんだと。昨日私は大黒様のお話をしたら、もうそこに大黒様のお知らせを頂いておる人たちがあるのから見るとです、それが桜じゃないのです。本当のことです。だから合楽の場合は桜のごたるですもんね。
 けれどもねそういうところからなら親先生が言うておられるところが本当だと信じる。信じるその心をですいわば自分達の生活の上に起きてくる様々な事もです、信じてそれを頂く。このくらいのことは出来たけれども、このくらいのことは出来ないという事ではいけない。ね。どんな場合であってもいわゆる、これを応用問題で解かせてもらうという、いうなら稽古に取り組まなければならない。ね。そしていよいよ、ね、神を杖につけば曲がる事の実感、いや、神を杖につけば曲がるという事の体験、または木や竹は折れるなという体験を積むことも大事。そしてそれを分かったら、それをいよいよもって、神を杖につかなければならないという一生懸命の信心をさせてもらっておるうちにです。ね、もう、神様を杖について信じきっての生き方ほど楽な生き方はないなあ、楽な道はないなあというその道こそが、草鞋の道である。草鞋履き、だからこれは一生懸命になかなければならないという事でございます。
                                     どうぞ
 
 明日から東京支部の大祭が明後日ですから、明日の朝から私共発ちます。沢山の方が同道して下さいます。親先生が東京に行くときには合楽の方達のみんなですね、ついていけれるくらいな、行きたいばってんお金がち言わんで済む位なねおかげを皆さん頂いて下さい。
                                     どうぞ